藤田嗣治の挿絵本と1920年代のパリの出版文化 ―レクチャーに向けて―

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Nov 25
2013
Posted in blog, miracle world by Minako at 10:09 pm | No Comments »

今回のミラクルワールドは、来たる12月1日のレクチャー「藤田嗣治の挿絵本と1920年代のパリの出版文化」に向けて、Foujitaのプロフィールと伝説の画商アンブロワーズ・ヴォラール、エコール・ド・パリについて説明したいと思います。

[藤田嗣治プロフィール]
1886年 11月27日東京府牛込区に陸軍軍医・藤田嗣章の次男として生まれる。
1903年 暁星中学校の夜学でフランス語を学び始める。
1905年 東京美術学校西洋画科に入学。
1910年 東京美術学校卒業。
1912年 鴇田登美子と結婚する。
1913年 6月、欧州航路で渡仏、8月、パリ到着。
1917年 3月、画家フェルナンド・バレーと結婚。
    6月にはじめての個展をシェロン画廊(パリ)にて開催。
1919年 サロン・ドートンヌに初入選。翌年に同会員、1922年には審査員に。
1923年 この年、ユキ(リュシー・バドゥー)と知り合い、翌年から同居。
1925年 仏政府よりレジオン・ドヌール勲章・勲五等(シュヴァリエ章)を受ける。
1929年 9月、南回り航路で日本に16年ぶりに帰国(妻ユキを同行)。
    母国での初個展(東京朝日新聞社、日本橋三越)。
1930年 太平洋航路、アメリカ経由でパリに戻る。
    秋に再度、ニューヨーク滞在、個展開催。
1931年 10月末、マドレーヌ・ルクーとともに大西洋航路でブラジルに向かう。
    翌年にはアルゼンチン、ボリビア、ペルー、キューバを経て、11月メキシコに入る。
1933年 アメリカ西部都市に四ヶ月滞在、個展。太平洋航路で11月に日本に帰国、定住。
1934年 3月、二科会会員。
    秋、銀座聖書館のブラジル珈琲陳列所に壁画を制作し、その後、北京を旅する。
1936年 6月、マドレーヌが急逝し、その後、堀内君代と暮らし始める。
1938年 4月〜5月、沖縄旅行。
    10月、海軍省嘱託として中国に派遣、戦線取材。
1939年 4月にアメリカ経由でフランスへ。翌年7月、神戸に帰着。
1941年 5月、帝国芸術院会員に推挙され、二科会を退会。
   「作戦記録画」の制作と発表が本格化。そのための戦線取材にも派遣が続く。
1945年 8月、敗戦。直後から。美術界の戦争責任が議論される。
1949年 3月、空路で日本を離れ、アメリカ入国。ニューヨークに定住。
1950年 2月、パリに戻り、4月モンパルナスに定住。
1955年 フランス国籍を取得、日本国籍を抹消。日本芸術院会員を辞退する。
1957年 レジオン・ドヌール勲章・勲四等(オフィシエ章)を受ける。
1959年 北フランス・ランスの大聖堂でカトリックの洗礼を受ける。
    洗礼名レオナール。
1961年 パリ郊外ヴィリエ=ル=パルクに、農家を改造して転居。
1966年 洗礼を受けたランスに礼拝堂「ノートル=ダム・ドゥ・ラ・ペ」完成。
    フレスコ画を制作。
1968年 1月29日、チューリッヒにて没。
    墓所はランスのノートル=ダム・ドゥ・ラ・ペ礼拝堂に。

「本のしごと」(林洋子著 集英社 2011年)より抜粋

[エコール・ド・パリ]
二つの世界大戦間のパリには、ダダやシュルレアリスム、抽象のような新しい前衛美術傾向以外に、具象を追求した「エコール・ド・パリ」とくくられる美術家たちがいた。この動きは明確な美学や主義を掲げたわけではないが、アカデミックな表現を逸脱し、自分本来の造形世界を求めたものである。

作家の国籍や作風は多様で、その中核をロシアや東欧から1910年前後にやってきた「異邦人(エトランジェ)」が占め、「エコール・ド・ジュイフ(ユダヤ派)」とも呼ばれるほど、多数がユダヤの血を引いていた。モディリアーニ、シャガール、パスキンといった外国人だけでなく、ユトリロやローランサンのようなフランス人も含められるのはシングル家庭の出身や女性といったニュアンスもうかがえる。

極東からの藤田もそこに数えられる。共有される作風には表現主義的な傾向、メランコリックな叙情性をあげうるが、パリで出会ったフォーヴィズムや表現主義を咀嚼しながら、自らの国民性、民族性に根差した造形精神を生かし、各人がそれぞれのスタイルを確立していった。

作風は多様でも、この街の創造的な雰囲気を共有することで生まれた傾向であり、まさしくパリが媒材となった「エコール(流派)」との呼称がふさわしい。第一次世界大戦後の20年代に最盛期を迎えるが、世界恐慌の欧州への波及以降、30年代にはファシズムの台頭もあって多くが母国に戻るなどして退潮に向かい、第二次世界大戦で実質的な終焉を迎えた。

「アート・ビギナーズ・コレクション もっと知りたい藤田嗣治 生涯と作品」
(林洋子監修・著 内呂博之著 東京美術 2013年)より抜粋

写真「画商の想い出」((小山敬三著 美術公論社 1980年))より

[アンブロワーズ・ヴォラール Ambroise Vollard(1866−1939)]
A.ヴォラール
ラ・レユニオン島出身。
1890年、モンペリエの大学で一時学んだ後、パリに上京。モンマルトルの一角に住み、法律学校で勉学をはじめるが、学位取得の予備試験に失敗。それが契機となり、他の世界に眼を向けるようになる。
学校のあるカルティエ・ラタンやその近くのセーヌ川岸の書店を歩きまわる日々のなかで、一点数フランという安価のデッサンや銅版画を買い求めては、下宿の壁に飾っていた。それがいつの間にか、彼の美術への興味を増大させることとなった。

1891年、24才の時、アルフォンス・デューマに出会い、彼の画廊に勤めることになる。そこで画商という職業を学び、二年後の1893年には独立する。
ヴォラールは、落ちこぼれの印象派の画家としてパリでは完全に忘れられていたセザンヌに眼をつけ、自身特有の鋭い直感によって、自分の画廊を持つ以前の92年に早くも作品を多数入手していた。スキャンダラスな画家とみなされていたセザンヌへの熱中は危険な賭けであったが、ヴォラールは全力を傾注し、徐々に成功を収めていく。

彼の新しい活動は人々の注目するところとなり、1890年代の後半になると、ヴォラールの画廊のある一帯は若い画家たちの溜り場となっていった。
ヴォラールの成功は、19世紀のパリの美術界に少なからず話題を投げかけ、20世紀に入ると、彼の画廊は当時の若い芸術家たちのメッカとなった。
詩人のアポリネール、ジャリ、ジャコブ、画家のボナール、ヴュイヤール、ピカソなどが常連だった。

ヴォラールの存在が大きいのは、セザンヌ、ゴーガン、ゴッホなどをはじめて扱ったというだけでなく、絵以外の分野にも眼を向け、それまではだれも手をつけなかった彫刻、陶器、版画、出版などにも広く手を染め、総合的に事業をすすめたことによる。
ヴォラールが45年余の活動を通じて作品を扱った美術家の数は、版画や挿絵本をふくめると膨大であり、そこには、19世紀末から今世紀の第二次世界大戦に至る時期のエコール・ド・パリの輝かしい才能の多くがふくまれている。

1939年7月22日、ヴォラールは別荘に向かうべく、自動車に材料を仕込んだシチュー鍋を載せて、女性と共にパリを出発した。
途中で急停車した時に、シチュー鍋が飛んで来て後頭部を激しく打った。
思いもよらぬ事故死であった・・・。

ヴォラールの地下室 ボナール 1907年

参考資料「画商の想い出」(小山敬三著 美術公論社 1980年)

新旧、国籍が入り乱れ、活気のあった、古き良き時代だったのですね・・・。



  1. It‘s quite in here! Why not leave a response?




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